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【アマビエブックス #17】山口瞳「卑怯者の弁」

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穂崎萬大。こすぎナイトキャンパス企画運営担当。本の燕居堂店主。

【書名】『男性自身 卑怯者の弁』(新潮文庫)
【著者】山口瞳
【刊行年】1989年

そういう言葉があるのなら、ぼくは「ヒトミスト」だ。折に触れて、彼の本棚から取り出す。
短い夏休みの最中、この本を取り出してみる。

そのなかから「卑怯者の弁}の紹介をひいてみる。

昭和20年8月15日、私は日本陸軍の兵隊だった。私には戦争のない世の中がどういうものになるのか、そのときは分からなかった。今、著名な文化人までが日本の再軍備を訴えている。いけない、それはいけない。まず何よりも、母が泣く。

ゴリゴリの反戦主義者の山口に軽軽には与しないけれど、戦中派の心情は尊重すべきだとと思う。むしろ、ココロのどこかでそのリゴリズムに惚れ惚れしている自分自身を知っている。

この一文では、清水幾太郎の「節操と無節操」という論文(『諸君』昭和五十五年十月号)が戦中派としの山口を憤らせる。噴き上がる戦中派の憤りを、ぼくは簡単に無視できない。

清水先生は、こうも書いておられる。

「しかし、私は思うのだが、『古い戦後』から『新しい戦後』への苦しい転換のエネルギーは、戦後に生れた諸君自身から出て来なければならない。『古い戦後』の甘い空気を吸って育った諸君、『日本国憲法』の無邪気な受益者である諸君の中に求めるほかはない。私のような明治生れの単純な戦前派や、大正及び昭和初期に生れ、複雑に屈折した感情を持つ戦中派は、もう転換の主役ではない。主役であってはならない。主役は戦後派で、戦前派や戦中派は、必要に応じて、彼らの役に立てばよいのである」
(中略)
この清水先生の文章は、なかなかに律動感があって美しいし、あんたが主役だと言われた戦後派の若い人たちは、快感をおぼえるかもしれない。しかし、戦中派コムプレックスの権化であるところの私は、この文章に、ある種の臭(にお)いを感ずるのである。これは聞いたことのある言葉だぞと思う。戦中派の諸君! そう思わないか。私には、どうしても、次の言葉がダブって聞こえてくるのである。
「ナンジラ青少年学徒ノ双肩ニアリ」

そしてこう喝破する。

清水幾太郎先生は「すべての国家が、もはや戦争することの出来ない国家、国家でない国家になるのではないか」(『日本よ国家たれ』)と心配されておられるが、戦争することの出来る国家だけが国家であるならば、もう国家であることはゴメンだ。

そりゃその通りです、山口さん。

 

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