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【アマビエブックス #55】坂口安吾「私は海をだきしめていたい」

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穂崎萬大。こすぎナイトキャンパス企画運営担当。本の燕居堂店主。

【書名】「私は海をだきしめていたい」(講談社文芸文庫版『風と光と二十歳の私と』所収)
【著者】坂口安吾
【刊行年】1988年

学生だったころに、ちくま文庫から「知のクーデター」というコピィで、文庫版の全集が刊行された。同じような時期だったと思うが、野田秀樹が『贋作・桜の森の満開の下』を千駄ヶ谷の日本青年館で上演して(再演だったかなあ)、安吾ってブームなんだと感じたことがある。
そのころは、メジャーになった村上春樹の影響で、ずっと外国の小説ばかり読んでいたのだけれど、ある日大学のゼミで、安吾の唯一の戯曲である『麓』について発表した女の子がいた。
そのゼミの内容はおろか、彼女がどのような発言をしたのかすっかり覚えていないが、それをきっかけとして、ぼくも坂口安吾を手にとってみることにしたのだ、と思う(記憶では、ちくま文庫版で初見したのかと思っていたのだが、手元にある講談社文芸文庫版が2年ほど早く出版されているので、たぶん後者のほうで今回のテキストを読んだのだろう)。

「私は海をだきしめていたい」は1947年の『婦人画報』に掲載された。文庫本のページにして、わずか13ページ程度の小品である。
この短編は、その冒頭に惹かれる向きが多いんじゃないか。

私はいつも神様の国へ行こうとしながら地獄の門を潜ってしまう人間だ。ともかく私は始めから地獄の門をめざして出掛ける時でも、神様の国へ行こうということを忘れたことのない甘ったるい人間だった。私は結局地獄というものに戦慄したためしはなく、馬鹿のようにたわいもなく落ち着いているられるくせに、神様の国を忘れることはが出来ない人間だ。私は必ず、今に何かにひどい目にヤッツケられて、叩きのめされて、甘ったるいウヌボレのグウの音も出なくなるまで、そしてほんとに足すべらして真逆様に落とされてしまう時があると考えていた。
私はずるいのだ。悪魔の裏側に神様を忘れず、神様の陰で悪魔と住んでいるのだから。今に、悪魔にも神様にも復讐されると信じていた。けれども、私だって、馬鹿は馬鹿なりに、ここまで何十年か生きてきたのだから、ただは負けない。そのときこそ刀折れ、矢尽きるまで、悪魔と神様を相手に組打ちもするし、蹴とばしもするし、めったやたらに乱戦乱闘してやろうと悲愴な覚悟をかためて、生きつづけてきたのだ。ずいぶん甘ったれているけれども、ともかく、いつか、化の皮がはげて、裸にされ、毛をむしられて、突き落される時を忘れたことだけはなかったのだ。
利巧な人は、それもお前のずるさのせいだと言うだろう。私は悪人です、と言うのは、私は善人ですと、言うことよりもずるい。私もそう思う。でも、何とでも言うがいいや。私は、私自身の考えることも一向に信用してはいないのだから。

安吾という人は、キャッチコピーがうまい作家だと思っているが(その反面、長い小説はダメだと思う)、これなんてその面目躍如たるものだろう。話はそれるが、彼のコピーライター的な文才は、例えば『堕落論』の冒頭にも見てとれる。

半年のうちに世相は変った。醜の御楯といでたつ我は。大君のへにこそ死なめとかへりみはせじ。若者達は花と散ったが、同じ彼等が生き残って闇屋となる。

『堕落論』発表の衝撃は凄まじかったというが(ああ、半藤一利の安吾についての本を読みたくなった)、その思想というよりも、このキャッチコピー的な文章自体が、まずもって鮮烈だったのではないかと思ったりする。

話は戻るがこの話には、筋らしい筋はない。主人公の男のモノローグ的地の文、そしてその妻との会話で成立している。その会話も地の文も彼らの生活の具体性を示してはおらず、ひたすら観念的、分析的な話がつづく。
女はもともと売春婦で、不感症になっている。男には愛情はなく肉欲だけがある。女には、過去をどうにか切り捨てない限りは、自分の肉体の感動を得ることができないといった、ある種の強迫観念が居座っている。どこかで自分を浄化しないといけないという意識がある。
一方の男(私)は、女の「ただ肉体が好きなだけだ」と言い放ち、彼女に何も期待せず、彼女が求めているものに無関心を装うふりをするが、男は女が不感症であること、余計なモノをはぎ取った身体性に収斂されていることに、虚しさという安らぎを見いだしている。

肉慾の上にも、精神と交錯した虚妄の影に絢どられていなければ、私はそれを憎まずにいられない。
私は最も好色であるから、単純に肉慾的では有り得ないのだ。私は女が肉体の満足を知らないということの中に、私自身のふるさとを見出していた。
満ち足ることの影だにない虚しさは、私の心をいつも洗ってくれるのだ。
私は安んじて私自身の淫慾に狂うことができた。
何物も私の淫慾に答えるものがないからだった。
その清潔と孤独さが、女の脚や腕や腰を一そう美しく見せるのだった。

「私」が求めているものは、いったい何なんだ。そして、「私」はいったい「信用できる語り手」なのかどうなのか(笑)。
観念的な小説なので、読み手によってさまざまに解釈ができるし、どこに着眼するかが別れる、面白いテキストだと思う。

私は谷底のような大きな暗緑色のくぼみを深めてわき起り、一瞬にしぶきの奥に女を隠した水のたわむれの大きさに目を打たれた。女の無感動な、ただ柔軟な肉体よりも、もっと無慈悲な、もっと無感動な、もっと柔軟な肉体を見た。ひろびろと、なんと壮大なたわむれだろうと私は思った。
私の肉慾も、あの海のうねりにまかれたい。あの波にうたれて、くぐりたいと思った。私は海をだきしめて、私の肉慾がみたされてくればよいと思った。私は肉慾の小ささが悲しかった。

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