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【アマビエブックス #56】ジャック・ロンドン『試合ーボクシング小説集』

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穂崎萬大。こすぎナイトキャンパス企画運営担当。本の燕居堂店主。

【書名】『試合ーボクシング小説集』(現代教養文庫)
【著者】ジャック・ロンドン/辻井栄滋訳
【刊行年】1987年

ジャック・ロンドンを、『野生の呼び声』や『白い牙』といった動物を主人公にした小説の作者としてしか知らないのは、ちょっと寂しい。ここに収められている短編「ひと切れのビフテキ」(原題 ”A Piece of Steak”)を読んで改めて思った。しかもこの短編集は絶版のようだ。もったいない。
ジャック・ロンドンは生涯で200編もの短篇を書いたといわれている。手がけたジャンルは動物小説だけでなく、冒険小説、ボクシング小説から、社会主義小説、半自伝小説、ホラー小説、ルポタージュなど、守備範囲はかなり広い。作家であり、ジャーナリストだった。

借金をかかえた引退寸前の老ボクサー、トム・キングは若い頃の栄光はすでになく、いまはひと切れのビフテキにもありつけない体たらくだ。今夜の、若いボクサーとの試合になんとか勝って借金を返し、ビフテキにありつこうとしていた。

「頑張ってきてね、トム」と彼女が言った。「あいつをやっつけなきゃだめよ」
「そうとも、やっつけなきゃあな」と彼はくり返した。「それしかねえよ。やっつけりゃあいいんだ」
元気を出そうと笑ってみせると、彼女のほうはいっそう強く夫を抱きしめた。妻の肩越しには、彼のがらんとした部屋を見まわした。滞納した家賃と連れあいと子供たち、この世に持てるものといえばこれっきり。そして今、ここをあとに夜の中へ出かけていこうとしているのは、妻子のために肉を手に入れるためなのだ--それも、機械仕事に出かけていく現代の労働者のようにではなく、太古の原始的で堂々たる動物のようなやり方によって、その肉を戦いとろうというわけだ。

トムは空腹感に悩まされながら、全盛時代だったらタクシーに乗っていった2マイルの道を、今夜は歩いて試合会場に到着する。彼は会場に入りながら、自分が昔ノックアウトした老ボクサーのことを思い出す。その老ボクサーは試合の後、更衣室で泣いていた。

今夜の相手は、昔の自分を思わせるような青年ボクサーだ。
試合がはじまった。
青年からは若さと体力にものをいわせての激しい攻撃が繰り出されるが、トムは体力を温存させるためできるだけ動かなかった。ほとんど反撃せず、相手のパンチの威力をそぎながら、ひたすらチャンスをうかがった。

キングの宝は、経験であった。活力が弱まり、元気が衰えてくると、それに代わるものといえば、ずる賢さと、長い戦いから生まれた知恵と、入念な体力の保持であった。余計な動きはいっさいしないばかりか、敵を誘ってその力をなくさせる術をも習得していたのだ。

ラウンドを重ねながらも(20ラウンドもある!)、いっこうにダウンしないキングに、青年ボクサーは苛立ちながらも、執拗にパンチを繰り出していく。
キングはキングで、ところどころで渾身の力をこめたパンチを打つが、青年ボクサーはダウンすんでのところで何度も立ち上がってくる。

若さが勝つんだ--こんな言葉がキングの心にひらめいた。そして、はじめてこの言葉を聞いた時のことを思い出した。ストウシャー・ビルを片づけた夜のことだ。その試合の後一杯おごってくれて、肩を叩いた紳士野郎が、そう言ったのだ。若さが勝つんだ!あの紳士野郎の言った通りだ。ずっと昔のあの夜は、俺が若さだったのだ。今夜は、若さは向かい側のコーナーにすわっている。

キング必殺のパンチは、相手のとどめをささなかった。逆に、青年ボクサーにノックアウトされてしまう。彼はひと切れのビフテキのことを恨めしく思う。そして昔ノックアウトした老ボクサーが、なぜ泣いていたのかをも、まさに身をもって知るのである。

さまざまなスポーツをたしなんだジャック・ロンドンだが、ボクシングはとりわけ好きだったようだ。観戦はもとより、妻のチャーミアンを相手にスパーリングしたりもしていたという。
緊張感の途切れない一編だ。老ボクサーと青年ボクサーとの闘いを冷めた視線で描き切り、最後に敗者の哀感漂う姿を誤魔化すことなく書いている。
ここに書かれているキングと青年ボクサーとの闘いのあいだには、余計なものがない。倒すか倒されるかのシンプルなルールだけが、ふたりのその後の運命を分かつのである。その冷厳な原則を作者は最後まで維持した。哀感、ではなく、むしろ、老残、という言葉がキングの背中に叩きつけられる。そして、キングは放り出される。
だが、それを作者の非情さと簡単に言えるのだろうか。

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穂崎萬大。こすぎナイトキャンパス企画運営担当。本の燕居堂店主。

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