【アマビエブックス #3】セネカ『怒りについて 他二編』

【書名】『怒りについて 他二編』
【著者】セネカ著/兼利琢也訳
【刊行年】2008年
先日観たのミュージカル「クオ・ワディス」の余韻を駆って、読んでみた。
セネカは、ミュージカルでは、皇帝ネロの側近として傍に仕えている。
セネカ自身はローマ時代の哲学者で、ティベリウス、カリギュラ、クラウディウス、ネロと歴代の「悪名高きローマ皇帝」に仕えた。哲人でもあり同時にきな臭い宮廷政治に関わった政治家でもあった。
一癖も二癖もある絶対権力者のもとに宮仕えした男が、〈怒り〉という破壊的情念について論じたのがこの「怒りについて」という一編だ。
皇帝連中の名前を聞くだけで、そりゃ仕える方はいずれも大変でしょうよとご同情申し上げますわ。
さて、怒りとはなにか。
怒りとは、不正に対して復讐することへの欲望である。
つまりは自分が不正に害されたとし、その相手を罰することを欲する、いわゆる〈報復の欲望〉であるとセネカはいう。 そして、〈怒り〉という感情は、人間にとってまったく無益なものだと喝破する。 アリストテレスなんぞは、怒りも人間にとっては役に立つ武器となるのだと説いているが、そんなものは嘘だと切り捨てるのだ。怒りは理性をも配下に治め、つまりは暴走するものだというのである。 そんな〈怒り〉にたいして、どう対処すればいいのか。
怒りに対する最良の対処法は、遅延である。
怒りに最初にこのことを、許すためではなく判断するために求めたまえ。怒りには、はじめは激しい突進がある。待っているうちに熄(や)むだろう。全部取り去ろうとしてはならない。一部ずつ摘み取っていけば、怒り全体を征服できるだろう。
怒りを覚えたら、一呼吸置いてみろということだろう。脊髄反射せず怒りを〈先延ばし(遅延)〉させるのだ。 その上で、セネカはこうも言っている。
たいていの人間は、犯された罪にではなく、罪を犯した者のほうに怒る。
われわれは、みずからを振り返って自分自身に考察を向ければ、ずっと穏健になれるだろう。「はたしてわれわれ自身も、何かこうしたことを犯しはしなかったか。こんなふうに間違わなかったか。そんなことを罰して。われわれのためになるのか」
われわれを怒りっぽくしているのは、無知か傲慢である。
悪人が悪事をしでかしたところで何の不思議があるか。敵が害をなす、友人が傷つける、息子がぐれる、奴隷がへまをやることの、どこが目新しいというのか。
ファビウスは、将軍にとって最も恥ずかしい弁解は「思っていなかった」だ、と言ったものである。私は、人間にとって最も恥ずかしい言い訳だと思う。あらゆる事態を思い、予期しておきたまえ。
それができたらねえと思う。まだまだ人間ができてないのです。